茨城(いばらぎ)・つくば・道場周辺


このコーナーでは、地元、茨城(いばらぎ)県・つくば・道場周辺の話題や魅力、絶景ポイント等を紹介します。


【茨城県の名前の由来:県名に関する有力情報】

ちなみに辞書や歴史書物、役所の記載上では「いばらき」と記されているが、それはひらがなが不足していた時代に記された間違ったままの呼び名で、実際には、県内の旧家のほぼ大半が古くから「いばらぎ」が正しいと訴えています。

しかし近年では入植者も増え、地元同士でもどちらが正しいのか分からないといったケースも多く、古くから呼び名に関しては地元同士でも激しく意見が対立してきた経緯があります。

そこで真偽を確かめるために約30年ほど前、既に地元の新聞記者や地元の高校生等が中心となり、古くからある地元旧家だけを対象に大々的に(県内各地域ごとに数千〜数万世帯を対象に)聞き込み調査を行ったところ、地元旧家のほぼ全てが「いばらぎ」が正しい読み方だという証言を得たとの事です。

また、当時の役所の担当責任者の話では、平仮名の不足していた時代に書かれた間違った呼び名の「いばらき」を、本来ある正しい読み方の「いばらぎ」に訂正するためには、全国全ての出版物(県や市の関係の書物や地図・辞書等)を含め、莫大な予算がかかってしまうため、既に当時(約30年前)の段階でも実現が難しいとのこと。

同県の正式名称:下妻(しもづま)市や大阪府茨木市(いばらぎ)市などにおいても同理由により、濁音が欠けた間違った呼び名(しもつま市)や(いばらき市)が未だ訂正されずとのこと。

これらの問題に関して当時の年配者達は、「今はまだこれらの事実が分かっている人々が大半だから、自分達が分別を間違えることはないが、これから県内に若者や入植者がどんどん増えると、彼らは実際にどちらが正しいのか分からなくなってしまう」と強く懸念されていたが、まさに現状は当事の人達が言ってた通りの結果となった形で、しかも遺憾なことに現代では政治的隠ぺいやマスコミ商業関連の執拗な宣伝工作も災いし、辞書や役所側の間違った呼び名が一般定着し呼ばれ続けているのが現状。

同様に訂正されずに間違った活字や呼び方のまま残っている地域名が日本には意外と多くあります。

話を戻しますが、近年、歴史文献上の記載を調べるため、歴史関係者(最高責任者の方)にお聞きしたところ、そもそも「茨城」という地区名は奈良時代(ひらがなの作られた平安時代よりも古い時代)に命名されたとのこと。
又、書物上では「いばらき」となっているが、それ自体がただ漢字で書かれているだけで、肝心な読み方は当時平仮名がまだ無かったため、他の漢字で当て字になっているだけで、しかも実際にはどういう漢字であったのかも誰もわからないとのこと。

更に他の歴史関係者の方々にもお聞きしたところ、「書かれている事がら」と「それが本当かどうかの事実」とは別問題であり、どんな書物においてもそうですが、記載されている事は全て、それを書いた著者の捉え方や認識でしかないため、実際には書物だけでは事実確認は不可能とのこと。

結局、県名の元である「茨城地区」を命名した当時の人々(奈良時代の御先祖)は既に全員亡くなってしまっているため、当事者に確認を取る事は事実上不可能であり、既に立証不可能な問題となっている訳です。

従い、後は県内旧家の人々の大半(地元御先祖さん達)が実際に長年使い続けてきた「いばらぎ」が正しいと判断するのが筋であると考えております。


NEW!
※ちなみに、昔から世間でよくささやかれてきたパターンで、茨城県の比較的近くにある宮城県の「みやぎ」につられて「いばらぎ」という読み方になったという俗説がありますが、コレは真っ赤な嘘で、そもそも宮城県は歴史が浅く、廃藩置県以降(江戸幕府が終わり明治以降)に当時の青葉地区(現在の仙台市の青葉地区)を中心にその一帯が「宮城県」という全く新しい名称の県名として任命されたものだが、
茨城県はその一年半以上前に既に正式県名として任命されており、茨城県という地名の方が(単に県名だけとっても)歴史が古いのです。

つまり、古くからある茨城県(いばらぎ県)につられて、新しい県名の宮城県が(みやぎ県)に、
仮に(いばらき県)なら、逆に「みやき県」と間違って呼ばれる事はあっても、
歴史の浅い宮城県(みやぎ県)につられて歴史の古い茨城県が「いばらぎ県」に間違えられる。という愚かな言い分は通用しない訳です。

単純に近い地名として釣られるのであればむしろ、茨城県庁所在地の水戸市内(県北)にもすぐ近い距離にある福島県(県南地方)一帯の旧称:岩城地区(現在:いわき地区)の方に釣られ、間違って呼ばれた可能性の方が高く、言葉の始まりも「い」から始まっており、言葉全体の語呂も似ている!

そもそも「茨城」という地区名そのものは、奈良時代に命名されたものですから、「宮城」や「いわき」よりも遥かに大昔からから呼ばれて来た地域名な訳です。

従って、似たような地域名の「印象」という意味でも、遥か昔から実際に呼ばれてきた「茨城」の読み方(歴史的に、より深く親しんできた地域名)の方が圧倒的に馴染みが強いため、他の地区につられる事は無い!という事です。

更には、間違いやすい言葉の方がむしろ(心理的に)注意深くなる為、実際にはその方が覚えやすいという利点もある。

例えば、「喫茶店(きっさてん)」を「きっちゃてん」と間違えて呼びやすい場合、むしろ教育者側はそこを重点的に教えるため、生徒側も間違えたら恥ずかしいポイントとして心理的にはむしろ強く覚える(絶対に間違えないように正しく覚えようとするため、むしろ実際には絶対に忘れない)訳です。

ましてや実際にそこに住み続けてきた旧家の県民(いばらぎ県民)や旧家の住民(しもづま市民)のほぼ全てが、自分の住んでる地区の名前を間違えて呼び続ける事など実際の確立論から考えても絶対に起こり得ないです!



《科学分析による結論》

そもそも言葉の発音というものは耳で聞き感覚でとらえるものであり、動物の鳴き声と同じな訳です。
漢字や平仮にしても正確な発音はあってないようなもの。

たとえば、古代の日本人が使っていたある発音が、実際の音として「が〜」に近いのか、「あ〜」に近いのか、「わ〜」に近い音なのか、実際に現代人が聞いてみないとわからないもの。

仮に当時の人々の発音を、現代人が実際に聞いてみると、「いばらぎ」でも「いばらき」でもなく、「えばらぎ」かもしれず、「えはらぎ」だったかもしれない訳です。

実例として挙げるならば、アメリカの州・西海岸地区 「California」 を日本語で書くと「カリフォルニア」ですが、
実際、現地アメリカの人々の発音を正確な日本語で書くとむしろ「キャルフォルニア」な訳です。

従い、「活字」と「実際の発音」とでは微妙に違う、という事を頭に置かなければならない訳です。

つまり、実際の音を活字(平仮名や漢字)で表現するには極めて無理があり、ましてや、いつの時代の誰が言語を聞き取り書き取った書物なのかもよくわからないとなると、それだけで実際の呼び方を「いばらき」と役所側が独断で決めつけるのは極めて横暴というもの。

当然、個人レベルの捉え方だけではその聞き手次第によって微妙に違った音の捉え方をしてしまう危険性も十分ある訳です。

むしろ、代々その地区に住む県民や市民全員が何年も聞き間違えたり、捉え間違えて発音し続ける事など、確率の観点から考えても物理的に起こり得ない訳です。

また、いくら訛りがあっても、それ自体が現地の発音であり、その国の言語な訳ですから、その現地の人々が昔から言い続けている「いばらぎ」や「しもづま」という発音が「現地の固有名詞」として尊重されなければ言葉として全く意味がないという事です。

いずれにせよ、長年その地区に住み続けている住民全体の投票や許可もなく、県名の決定を役所側が上から一方的に決めつける行為そのものが民主主義に大きく反するという事です。



《新たな問題提起》

先に記した通り、県名の元である「茨城地区」を命名した当時の人々(奈良時代の御先祖)は既に全員亡くなってしまっているため、当事者に確認を取る事は事実上不可能であり、既に立証不可能な問題となっているにもかかわらず、県の関連(県庁や市役所・その関連機関など)が関連マスメディア・ITネット・マスコミぐるみで強引且つ一方的に「いばらき」を押し付けてくる行為そのものが極めて傲慢身勝手な横暴そのものであるという事です。

又、(当時30年以上前から現代に到るまで)、県名に対する疑問や問い合わせを県や市役所・県のホームページなどへ直接電話やメールなどで問い合わせしても、結局、実証不可能な歴史記述だけのいい訳か、それ以上は知らぬ存じぬ・ノーコメントの一点張り。あるいは他の機関への「たらいまわし」の現状が続いています。

それらの現状を踏まえると、執拗な「いばらき」の押しつけ行為は、これらの問題を放置し続けてきた県関連側の怠慢を隠ぺいするための「隠ぺい工作」とも取れる訳です。


本来、茨城(いばらぎ)県民は機転が利き、他者を立てて盛り上げるのが上手な県民性であり、むしろ利益に関係ない細かいところには全くこだわらない属性もあり、ただの県名のようなもの(住民個人にとって全く利益にならないもの)を他者に執拗に押し付けるような人種ではありません。
それらを執拗に押しつけてくる輩連中は、むしろ全く違う目的・属性をもった種の可能性が高いという事。

ましてや、遠方から遥々茨城県を盛り上げ応援に来て頂いた方々にまでしつこく「いばらき」を押し付けるなどという愚行は言語道断!
そのような鬼畜愚行を我々地域住民(いばらぎ県民)がするとは上記県民の属性(茨城県民の地域性や性格など)から考えても到底結び付きません。

おそらく何がしらの悪商や悪政(※@)が多々絡んでいると思い、そのような人道に反する行為は県民としても恥であり、人として絶対に許してはならないという事です。

※@: 約30年ほど前に県の汚職役員らが犯した不正事件。

平仮名が不足していた時代の間違った県名や地域名が長期間放置されていた問題に対し、当時の国側が全国各都道府県の地域名修繕費として、問題を抱えている地域に公金として配られた。
茨城県内にも当然それらの修繕費が配られたが、その公金を県の汚職関連が横領し持ち逃げした。
犯人は後日すぐに逮捕されたが、持ち逃げした大金が全く見つからなかった事件。

犯人の自供では、それらの大金は全てスナックや飲み屋などで使ってしまったとしているが、とても数日で使いきれるような金額ではないため、どこかに隠した可能性が高いと指摘されている。

それらの大金はいまだ見つかっておらず、当時の捜査関係者によれば、当時の県の汚職関連が組織ぐるみで犯行を行った可能性が高く、事前に打ち合わせし、犯行後、その口封じを兼ねてそれぞれの関係者に金をばら撒き(分配して)隠してしまった。というのが見解で、今も尚、これらの不正事件が絡んでいる可能性が高いという事です。

いずれにせよ、県名や市の名前はその地区に最低年月以上住み続け「住民」となった「県民や市民」自らが決める固有名詞であり、県名の混乱回避のために昔から住民たちによって投票(県名やその呼び名を直接住民によって決める多数決投票)を要望し続けているにもかかわらず、役所側はそれを無視し続け、上から独裁的に名前を決めつけ押しつけているばかりか、近年のつくばエクスプレスの開通と同時に、何も知らない入植者や若い住民などが増えている状況をいい事に、執拗に情報洗脳し、それら「他者」を使って更にウソを拡張させている鬼畜行為は、そこに住む住民同士や他の地域住民との不信感やトラブルを引き起こし、延いては国民相互の信頼・理解を損ねる情報テロ・かく乱行為(露骨な情報操作)そのものであり、人道として絶対に許してはならないという事です。 以上。


***以前から(30年以上前から)これらの状況を踏まえ、真摯に茨城県の改善(この土地を守ってきたご先祖やそれを受け継いできた旧家の人々が実際に呼び伝えてきた「いばらぎ県」や「しもづま市」の方を次世代に正しく読み伝えるボランティア活動)に取り組んで頂いている地域住民の皆様や(国や県や市の各公務職員を含む)各関係者の皆様方には厚く御礼申し上げると同時にこれからも宜しく御願い致します。***



《その他の地区》

平仮名が不足していた時代の読み方がそのまま放置され、未だに間違って登録されているその他の地区としては、
有名なところでは三重県の松坂市が、茨城県と同様の理由により、地元正式名「まつざか市」が「まつさか市」のまま登録されている。
更に、日本一有名な松坂牛「まつざかぎゅう」が、「まつさかうし」とされている。

岐阜県と長野県の県境にある日本第三位の高さを誇る名峰:穂高も、その山自体の個体名や山脈名、長野県側の穂高市も含め、地区の正式名称である「ほだか」が「ほたか」になったまま問題になっている。

いずれも各地元に代々住み続けてきた旧家の方々に直接問い合わせてみると、実際には、松坂市は「まつざかし」が正しく、松坂牛は「まつざかぎゅう」が正しい。しかも常識だとの回答を得ている。

穂高(山個体、山脈、市や町を含む名称)は、岐阜県側は、ほぼ大半の人々が「ほだか」が正解で、それに対し、長野県の市役所関連側だけは「ほたか市」が正しいというが、実際の長野県の旧家市民側は「ほだか市」が正しいという回答が大半である。


これらの調査結果は、全国各地域の地元旧家・名家・一般民家・地元企業・地元商店などと直接取引のある画商や百貨店外商などが、日本全国各地区の歴史ある旧家などに営業・取引…(芸術文化作品・絵画の取引や株・商品取引など)に出向いて直に回答を得てきており、これらの呼び名の問題を以前から指摘されていた。

結局、実際には一部県や市役所側だけが濁音の欠けた地区名(平仮名の不足していた時代のままの呼び方)を強要しているだけで、むしろ古くから地元に住み続けている旧家などを対象にした問い合わせでは、地元住民側の呼び方は基本的にどれも一貫しており、濁音の付いている現代の親しみのある呼び名の方が本来の正しい呼び名で間違いないとの結論が出ている。


本来地区の名称というものは、そこに住んでいる原住民が地元の品格や神々しさなどを表現・伝えるための言葉であり、「穂高」などにおいても、気高い立派な山々的な意味合いで穂高山(ほだかい山の意味)とされた。

それに対し、「ほたか山」や「まつさかうし」などでは明らかに間の抜けた意味不明な表現であり、そこに住む住民は誰も好まないし、そんな変ちくりんな牛肉を誰も買わない。

やはり実際の穂高山脈のイメージからしても「気高く、ほだかい山:穂高」であり、
松坂牛にしても「まつざかぎゅう」という名称の方がどう考えても品格あって力強くベストである。

同様に「いばらきけん」では「茨の危険な地区」的な意味合いになり、むしろただの「看板の注意書き」になりマヌケで危なっかしい不快な呼び名である。
「いばらぎけん」の方が「茨に守られた力強い城」的な明らかに力強い街のイメージがある。

また、「しもつまし」では、まさに歯っかけフヌケな表現で不自然であり、「しもづまし」の方が、やはり町として力強く堂々としている。

これらの意味や町おこし・その地区への願いを込めた地元住民、延いては御先祖の意思…(そこに住む自らの地区を代表する名称を決める意図)を考えれば必然と正解は見えてくるはず。

以上。





【地元:茨城県の魅力をアピールするコーナー】

このコーナーでは、私たち茨城県民が古くから慣れ親しみ守ってきた由緒正しき「いばらぎ」県名を地元の若者や県外からの入植者に正しく理解してもらい、楽しく歓迎持て成すために、地元に関連した川柳やキャッチフレーズを紹介していきます。


《地元を盛り上げるキャッチフレーズの紹介》


ようこそ、いばらぎへ。

義理と人情のいばらぎ。

大地震 でも安心! ぎりぎり住めるよ、いばらぎ。

大地震 あと安心! ぎりぎり住めるよ、いばらぎ。

大地震 でも安心! 義理と人情のいばらぎ。

先ずは しもづま。

吾妻 オズマ しもづま。

もうねぇが ジャスコと言えば しもづま。

そば清 美味かった しもづま。

地元じゃメジャー まだ見ぬ異国 砂沼サンビーチ。

♪甘いマスクのにぃちゃんも、甘え上手なねぇちゃんも、モズモズモズモズ しもづまへ。

そうだ、いばらぎって言ってみよう!

なぜ、いばらぎを尽くさないのか?

ど〜んと来い!いばらぎ現象。

欽ちゃんの どんどん、いばらぎって言っていこう♪

いばらぎます。いばらぎます。

良いいばらぎ。悪いいばらぎ。普通のいばらぎ。

では次のいばらぎを紹介します。

いばらぎ走り。

♪日はまた昇る〜 このいばらぎ砂漠〜

いざ、いばらぎへ。

ビバ!いばらぎ。

1+1=いばらぎ

あっちむいていばらぎ、こっちむいていばらぎ。

いばらぎさん、いばらぎさん、でっかくな〜れ!

でっかいどう いばらぎ道。

でっかいどう いばらぎ国道6号線!

ジャックといばらぎ。

部屋とワイシャツといばらぎ。

Kのいばらぎ。著者:中島いばらぎ。

イニシャルいばらぎ。

仁義無き いばらぎ戦い。

男はいばらぎ。

いばらぎはつらいよ。

あしたのいばらぎ。

いばらぎを向いて歩こう♪

いばらぎ県があるさ。

明日は明日のいばらぎが福。

いばらぎ標準時間。

世界のいばらぎ。

おいでよ、いばらぎへ。

人も歩けば、いばらぎに到る。

目指せ!いばらぎ一直線!

公式いばらぎ記録

パリ⇒いばらぎラリー

いばらぎ24時

24時間いばらぎTV

いばらぎグランプリ

いばらぎ選手権

不思議の国のイバラギ

大いばらぎ人

いばらぎ県ぼる

さや茨城

こちら、いばらぎ県しもづま公園前派出所

「フルコンタクトいばらぎゲーム」 著者:いばらぎ望

常磐新幹線いばらぎ

クイズいばらぎダービー

イバイバ90分!

いばらぎ いいとも!

いばらぎのいばらぎは皆いばらぎ、世界に広げよう いばらぎの輪

いばらぎ しもづま いい気分♪ 空いてて良かった♪

元気はつらつ、いばらぎいい〜♪

いばらぎを歩こう!

ふくらはぎ いばらぎ

萩⇒いばらぎ旅行

ちょっといばらぎで一休み

東海道53いばらぎ

レオナルド・ダ・いばらぎッチ

モナラギ

ミレーのいばらぎ拾い

いばらぎだよ!全員集合♪

ちょいと五人のいばらぎ いい男

THIS IS A IBARAGI

イバラギ〜ン

茨ちゃんペッ!

いばらぎポーズ

いばらぎ様

後半、いばらぎ行ってみよう♪

茨ちゃんの茨牛乳

ちょっとだけ いばらぎよ、あんたも好きねぇ♪

♪いい いばらぎだな、いい いばらぎだな

♪ここは いば〜らぎ、しもづま市の湯

ババンババンバンバン♪ いばらぎ洗えよ〜

ババンババンバンバン♪ いばらぎ磨けよ〜

ババンババンバンバン♪ いばらぎ忘れるなよ〜

ババンババンバンバン♪ また来週〜いばらぎへ〜

東京都特許茨局

人生、来るいばらぎあれば、帰るいばらぎあり。

この先どんなに苦難が待ってても立ち止まるなよ、いばらぎ!

笑って いばらぎ過ごせば、苦もまた癒える

いばらぎの人生が有意義でありますように。

では、いばらぎ県民にご唱和ください

1〜 2〜 3〜 いばらぎダァ〜!

アントニオ茨木(あんとにお・いばらぎ)

ありがとう、いばらぎ♪

お疲れ様、いばらぎ♪

今日はいい、いばらぎ日和ですね!

曇りのち、いばらぎ

WOW WAR いばらぎTONIGHT

時には起こせよ、いばらぎムーブメント

H Jungle with IBARAGI

茨城(いばらぎ)下町のごっつええ〜いばらぎ

絶対に笑ってはいけない、いばらぎ24時

いばらぎ七変化

世界のイバラギー

新・いばらぎおにぃ

腰振り茨ちゃん

ピカいばらぎ〜しもづま

茨ギースー

名物いばらぎキャラクター

いばらぎ名物 いばそば

いばらぎ しもづま定食

いばらぎ しもづまで定職

マジ、いばらぎ。

いばらぎサービス中!

いばらぎ⇔しもづま循環バス「いばいば」

つくば茨プレス

常総線しもづまエクスプレス

ローカルバスで行く、いばらぎ⇒しもづまの旅

「遠足でいばらぎへ行くを言いづらい、いばらぎ県民」を早口言葉で三回言っていばらぎ!

やっぱ、いばらぎが一番だわ♪

面舵一杯、いばらぎの旅

つくばの次は 吉沼!吉沼といえば 吉沼銀座!

サッカーの神様といえばジーコ!ジーコと言えば、いばらぎ!

牛久大仏もいる いばらぎ

いばらぎの大巨人 牛久(阿弥陀)大仏

高い木々 膝下しかない 牛久大仏

自由の女神の3倍あるよ 牛久大仏

そびえ立つ富士 筑波 牛久大仏 三点連立いばらぎ方式

でっかい田んぼ〜 水海道

水海道 田んぼと旧家と歴史ある byいばらぎ。

水戸行けば 黄門居ずとも 土産ある それが いばらぎ。

いばらぎ しもづま 世直しの旅

役者よりも役者、それが いばらぎ。

芸人よりも芸人、それが いばらぎ。

笑いあり 正義あり 力あり これぞ いばらぎ。

※一部訂正個所:阿見大仏⇒牛久大仏(うしくだいぶつ)
正式名称(漢字表現)で記すと「牛久阿弥陀大佛」との事(ウィキペディア参照)。訂正御詫び申し上げます。2011/8/23

※ちなみに仏の語源は「沸く」の意味。
当初、かまどに掛けてあった大鍋が沸騰し、湯気が壮大に立ち上る様があたかも巨大な人が沸いて出て来たように見えたため、大きく沸き出る的な意味合いで「大沸(だいふつ)」と書いて「だいぶつ」と読ます日本語の「当て字」として付けられたのが語源。
大きな人が沸いて出てくる的な意味合いから漢字では「大佛」が正式採用され、その後、新しい漢字が増えて漢字改定以降、「大仏」の文字となる。
東大寺大仏殿僧侶談。(20年〜30年程前に聞いた話)。

本来、人々が神や仏として崇めてきたもの(そのルーツ)は、単純な物や人ではなく、むしろ人間には計り知れない大自然のような偉大なる存在(森・水・草花・月・太陽・星々・風・木々・火・山・空・大地など)に宿る精霊的な意味があったため、このような語源に到ると分析する。



《地元を盛り上げる川柳の紹介》

向かい風 自転車進まぬ しもづま市

風強い 漕がなきゃ着かぬ しもづま市

真夏日は クソは無くとも クソ暑い

真冬日は クソは無くとも クソ寒い

石下町 タイ焼きうまい 夢の跡

しもづま市 買い物してた ジャスコ跡

筑波山 霞ヶ浦の 美しさ

 間近来る ヘドロとゴミで 湖か?

土浦市 夏の花火は 日本一

土浦市 夏の七夕 ありはあり

一昔 買い物出かけた 土浦市

今は夢 思い出だけの 土浦市

いばらぎは 何は無くとも 地震ある

いばらぎは 何は無くとも 自身ある

いばらぎは 北風強い いばら道

いばらぎの 夢を背負って ひた走る

いばらぎは 何は無くとも 明日がある(@@)V





【大自然と格闘技】
Great nature & battle sports.

今回趣向を変え、地元周辺の自然や風景を使って、芸術とスポーツ・格闘技との関連性(普遍性)を紹介していきます。

一見どれも何気によく見かける風景ですが、どの画像にも自然の美がある、という事を感じ取ってもらえれば幸いです。



《筑波山》
Tsukuba mountain.



これは、比較的オーソドックスな分かりやすい美的風景です。

筑波山の雄大さとそれを覆う新緑(木々)の柔らかさとの対比があり、
全体(空と山と手前の木々と)の色彩の調和に「和風の美」が感じられます。





《つくばの眺望》
A view of Tsukuba city.



筑波山峠から見たつくば周辺の眺望。

見渡す限り関東平野が広がっています。

この様な風景も比較的オーソドックスな美ですが、時を選ばず見る度に自然で広大な空間の広がりに癒されます。

手前から遠方、更には空や地平線までもが絶妙な色彩グラデーションでつながっているのが感じられるでしょうか?

この風景の美のポイントは、手前から中間地点→遠方→地平線→空までの繊細且つ滑らかな色彩のグラデーションと広がりです。
これらが見事に調和し融合し合っている所です。





《土浦・霞ヶ浦の眺望》
A view of Tsuchiura city & kasumigaura lake.



筑波山峠から見た土浦・霞ヶ浦の眺望。

遠望には霞ヶ浦が微かに霞んで見えます。

決してヨーロッパの風景ではありません。

むろん、アンデス地方の風景でもありません。

しかしながら、ヨーロッパの風景絵画のような力強さ(迫力)と空間の広がりがあります。

又、日本的な湿度(淡い霧)による「和の落ち着き」と広大な「大陸的迫力」とが見事に調和しています。

薄霧がかかっていながら遠望が楽しめる、という貴重な瞬間でもあります。





《山間の木々》
The trees of mountain.



一見、何の変哲もない風景ですが、何気に全体観が美しく、ゆったりと癒される光景ですね。

これは手前の木々が規則正しいリズムで生息しており、草と木々とが無理のない自然の背丈で調和し合っているからです。

不自然な背伸びを全くしていない生命(木々)本来の自然のリーチと間合い(間隔)、そしてリズムを楽しめるから癒されるのです。





《草むらと木々》
The grasses & the trees.



先ず何よりも、無駄な色のない自然な緑系色だけで統一されており、絵的にまとまりがあります。

草や葉だけでも木々の種類や遠近感、生えている場所によっても、これだけ微妙な色彩の緑があり、
木々の深みや質感の違いも感じ取れると思います。

空に対比する枝葉の空間だけを見てても、これだけ規則的にリズミカルに自然調和している状態が見て分かると思います。

全ては自然の法則・規則性(必然性)にそって生育し成り立っている、という事です。


《補足》

自然界(現実の世界)では、決して理屈が先行する事はなく、
全ての生命や物質は、それらが実際に持っているエネルギーの必然性から始まり、その延長線上に成り立っていく訳です。

「頭で考えるな!感じろ!」という悟りの教えがあるように、
そもそも頭で考えて行動していたのではとっさの状況に対応できず、いざという時に出遅れてしまったり、
又、複雑な状況変化に反射的対応ができないため、理屈上の対応(理想)と現実とがかみ合わなくなってミスってしまう訳です。

論理的対応は、あくまで普段の練習の段階での確認作業(感覚誤差の修正)や事前の追求(有効性や可能性の追求等)に他ならない訳です。

そもそも理論という物はその性質上(理論=事実と事実との関連性部分、という性質上)、実証の伴わない理屈は机上の空論(実体のない空周り)に他ならず、言わばただの錯覚(間違い)でしかない訳です。

理論とはあくまで実証の基で初めて成り立つ代物に他ならない訳です。

どんな未体験ゾーンであっても、何かしらを感じ、実感できるからこそ、現実的可能性を見出し、実際に挑んで成功できる訳であり、
実感が何もない中で具体的に何をどうしようもなく、又最初から何も実在し無い道を歩んでいても、その先どこまでいっても何もない延長に他ならない訳です。

『自然(現実)というものは、実在する全ての原理原則(必然)によって動いている』
という事を芸術やスポーツ・格闘技を通して強く感じて頂きたい。





《枝葉の空間美と眺望》
The beautiful space of tree's ends. and a view.



余計なものが消される事でかえって枝葉の規則性や合間の空間美が引き立って見えます。

又、密集した手前の木々によって覆われた抑圧感が、逆にその先の空間の広がり・開放感を引き立たせています。

更には手前の木々の影の暗さが、その先のメインとなる遠方の空間の明るさと安堵感を引き立たせています。

周囲が単調な黒一色である事によって、空の微妙な柔らかさ(淡い美しさ)と遠方の微妙な広がりを分かりやすくしています。

一見、見過ごしてしまうようなごく普通の風景ですが、よく観察すると確実に美が実在している事が分かると思います。





【自然(現実)から学ぶ事】
The treasure from nature.

≪自力・開発する能力(パイオニア)の育成≫

このように何気ない日常の中にもいろんな美や規則性・合理性がある訳です。

これは一見何気ない人間の運動や動作一つにおいても、その中にある普遍的な力、原理原則、基本や奥義があり、
延いては実際に何が重要で何が不要なのかを正確に観察・分析し理解する(見方)を学ぶ事が不可欠である、という事です。

正しい現実の見方・捉え方ができなければ、いくら練習量をこなしてもスタートラインにすらもつけず、
どこに走り出して良いのかも分からない、その先に何があるのかも分からない危険な状況に陥ってしまう訳です。

実感(感性)を無視し、理屈が先行した時に人は失敗する訳です。

しかしながら一般的に素人は、普段、ただ漠然と既成事実や先入観に流されて生活しているため、どんなに凄いお宝やチャンスが目の前に落ちていてもそれらを見逃してしまっており、単純に気づかない状態にあります。

従ってこれら自然の美や規則性、原理原則や奥義に気づく為には、日々日常における繊細且つ意識的な観察(地道な比較作業)が不可欠であると同時にそれがスタートの条件となる訳です。


『観察⇒分析⇒実証の基で成り立つ理論の確立(個々の自力・判断力が養われる)』


自然や物の良し悪しはもちろん、合理的運動や動作・かけ引き・戦術などにおいても、具体的にいろんな能力差を意識的に比較する事で何が具体的に良いのかを見極め、その関連性を見つけ出す事で、実際に成立する理論(原理原則)を得る事ができる訳です。

本物の芸術家やアスリート(スポーツや格闘技)、延いては本物の科学者の育成に絶対不可欠な思考資質な訳です。

これらの地道な作業を経る事で得てきた経験やそれらの経験に基づく理論を積み重ねていく事によって、どんどん自らの力によって高いレベルの開発能が可能となり、より高いレベルで物事を正確に見極めたり、常に正確な状況判断ができるようにもなる訳です。

実際、現実世界ではそうそう映画のようなド派手な凄い事ばかり起こりえない訳です。

だからといって一見地味な物がレベルが低いという発想も既に安直で間違っている訳です。

むしろ何気ないありふれた自然現象や動作の中にこそ、絶対不可欠な原理原則(普遍性)や基本・奥義があったりする訳です。

問題はそれに繊細に気づく事ができるかどうかな訳です。





【おまけ】
Extra.

《筑波山から関東平野を望む 黄昏編》
The sunset view for Kanto plains from Tsukuba mountain.



















《筑波山から富士山を望む トワイライト編》
The twilight view for Fuji mountain from Tsukuba mountain.















【おまけ2】
Extra2.

《3Dアスリートちゃん》

3D専用メガネか、セロハン紙(左側が青:右側が赤)を使ってご覧下さい。
3D(立体映像の視野)に完全に慣れるまで数分〜数十分程度かかる場合もありますのでゆっくり目を慣らしていって下さい。
3D映像が見づらい場合は少し離れたポイント(画面から50cm以上離れた所)から徐々に近づいていくと立体の凹凸がだんだん見えてきます。
※ちなみに、セロハン紙を反対(左側が赤:右側が青)にして見ると、逆に、奥に引っ込んで見えます。

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